赤岡教会からの日々のメッセージです。

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。

ご復活第5日曜日
復活節第5日曜日
信徒行録 6:1-7; 1 ペトロ 2:4-9; ヨハネ 14:1-12
 おそらく次のような経験をしたことがあると思います。つまり自分の目の前に居る人は全くと言っても良いぐらい何も話してくれません。ただそこに居るだけです。その人は親であり、配偶者であり、子供であり、親しくなりたい人である時もあります。その人と親しくなりたいけれど無言のまま。何を思っているかを知りたいけれど無言のまま。
 そういう時に、皆さんがどう感じるか知りませんが、私は心地の良くない気分になります。大概二人の人が出合う時、お互いに知り合いたいけれどこの場合は心を開かないため会話がなくて大沈黙となります。こちらの方からしゃべっても反応がないのです。ますます心地が悪くなります。
 その人の顔が良く見えているけれど心の中にあるすばらしいものが見えていないためやっぱり心地が良くありません。お互いの通い合い、お互いのコミュニケーションがありません。あればお互いの深い繋がりが更に深まるでしょうに。
 そんな時いろいろ想像してしまいます。目の前に居る人はあるいは機嫌が悪くてしゃべりたくない、あるいは悪いことをしてしまったのでちょっと臆病な気分になって話したくないのだろうと想像します。他にも色々想像するでしょう。
 人を知りたいならば、まずその人が言葉や行動をもって自分のことを伝えてくれなければできないことです。
 イエスがこの世に来られる以前に人々は神を知ろうとしていました。神の言葉を聞けなかったために神は無言のように見えました。
 しかし神は私たちと同じような話し方で話しません。だから人々はその無言の神の前に立って、神をも知らなかったし、間違った神を想像してしまいました。あるいは神が私たちにお話になりたいということも分からなかったのです。
 おそらく神はこの世を創ってからこの世と関係したくないのだと思ったり、そしてその、無言の神の前に立つと心地が良くなかったことは確かです。
 もちろん大自然を見て、ある程度、神がどんな者であるかを想像しました。太陽を見て、山々を見て、川を見て、春や命や愛を見て神の偉大さを少しは理解していました。しかしそれらを見る時に神を連想する人は少ないのです。
 聖書を読んでいくらか神についていろいろ学ぶことができるけれど聖書を手にして読む人は少ないのです。
 他方ではやっぱり無知識のままでも心地が良くありません。知りたいけれど無言の神の前に心地が良くありません。
 神の存在を疑ってはいません。いらっしゃらなければ色々な説明のできない問題が残るのです。でもそのお方を知ることができないのは悲しいことですし残念なことです。
 だから再びいろいろ想像してしまいます。きっと神が私たちにお話しにならないのは怒っておられるからだとか、神と人間の間の隔たりがあまりにも広いのでお話しすることができないとか、神は人間のことについて興味を持たれないのだとか、人間を愛しておられないのだとか、神はご自分の高い地位から降りて人間と関わりたくないのだとか、いうようなことを想像してしまいます。
 しかし、聖書によるとある日フィリポというイエスの弟子はイエスにお願いしたのです。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」、と。イエスはお答えになりました。「フィリポ、わたしを見た者は、父を見たのだ」、と。
 イエスが言っておられるのは次のようなことです。「私は父の言葉です。私の言うことを聞けば神の言葉を聞いているのです。私を知る人は神を知るのです。私の仲間になる人は神の仲間になるのです。」
 神を知ろうと思うなら、人の言葉を聞き、人の本を読むだけでは不十分です。本当に神を探すならば神の言葉であるイエスを聞きましょう。イエスに友人のように接して、イエスと深い関わりを持ちましょう。イエスとの深い関わりを持ちたいならば私たちの周りにいるイエスの大勢の兄弟姉妹と深く関わっていくことです。
 それに聖書を手にして心の目で読むことです。
 父と子と聖霊のみ名のうちに。アーメン。

ブルゴアン

聖土曜日
聖土曜日
ローマ 6:3-11; マタイ 28:1-10
 婦人たちは彼女らの生活に生き甲斐を与えた主の墓参りに来ました。墓に着いた時にもう既に夜明け頃でした。マタイによる福音では、何故来たのかについては何も言ってくれません。その場所を見守るためにだけそこにいたかったかも知れません。
 でも急に展開してしまいます。神はそこにいると言うことが明らかになりました。マタイによると地震が起こり、墓の前の石が転がっていました。天使たちは「急いで弟子たちに見た事、聞いた事を伝える」ようにすすめます。恐れのうちに喜びをもって二人のマリアは弟子たちのところに走ってイエスがよみがえった事を告げ知らせます。
 復活されたイエスを見たので喜んでいました。恐れていたのはこれから告げ知らせようとする事が拒否されるかも知らないからです。私たちも同じような体験をするでしょう。神の栄光を感じるけれども人に伝えたら拒否される恐れを覚えます。他の人がどう思うかしら、と。しかしその恐れの中にいても天使が言われた通りにします。なぜなら神の業は自分の恐れよりも強かったからです。
 二人の婦人についての話は素直な正直な証がいかに大きな影響がありうるかを見せてくれます。
 ユダヤの長老たちなどが他の説明をすすめたけれども彼らを信じないで二人の婦人たちの証を受け入れます。もし神が自分の事を伝えたいならば権利のあるそういう人を通してでもと思われるが、神のご計画は違います。二人のマリアの証言、そして信じて現代まで証してくれた人々の証言はいかに力があったかはすぐ分かります。
 キリスト教はローマ帝国よりも長く続きましたし、どの帝国よりも今でも続いています。なぜなら真実を語り、忠実に神の呼びかけに応え、告げ知らせ続けているからです。
 主イエスよ、聖霊の導きに従っていく勇気をお与えください。あなたのみ国を告げ知らせる喜びが私たちの恐れ、恥ずかしさ、自信のなさ、拒否されると思う先入観を乗り越える力になりますように。そしてあなたの愛を分かち合えるように強めて下さい。
  父と子と聖霊のみ名のうちに。アーメン。

ブルゴアン

聖金曜日
聖金曜日
イザヤ 52:13-53:12; ヘブライ 4:14-16, 5:7-9; ヨハネ 18:1-19:42
今日、何のために教会に集まりますか。
今日、キリストの十字架に近寄って来る目的は、
普通のお墓参りの気持ちではありません。
そこへ行って数分の沈黙を守るためではありません。
 なぜなら
私たちの信仰によると
 キリストは生きておられるからです。
  お墓参りは必要ではありません。
また、裏切られ、むち打たれ、十字架に付けられた人を
嘆き、悲しみ、悔やむためには集まりません。
 かわいそうだとか言うような気持ちは要りません。
 なぜかというと
私たちの信仰によると
 十字架というものは勝利の記念碑のようなものだか
  らです。
そしてただ昔、行なわれた出来事の朗読を
聞くために集まるのではありません。
 なぜなら
私たちの信仰によると
 イエスのご受難は
  毎日々々私たちが行なうミサ、感謝の祭儀の
中心にあるからです。
しかし特にここに集まる目的は、
その御姿に倣うために
 神の僕が苦しみに粉砕されたことを思い出し、
感謝の気持ちを表わすために
 キリストの罰に使われた十字架を崇拝し、
キリスト者として成長するために
 生きておられるキリストの体を
  本当の食べ物としていただくためです。
 そうすることによって
私たちは罪人であることを自覚し、
救い主イエス・キリストに対する信仰を固め確信し、
イエス・キリストが私たちに与えて下さった命は
 すべての死去に意味を与えてくださいます。
決して暗い式ではありません。
かえって私たちに希望を与える式なのです。
それを思い出しながら今日の式典にあずかりましょう。
  父と子と聖霊のみ名のうちに。アーメン。

ブルゴアン

聖木曜日
聖木曜日
出エジプト 12:1-8, 11-14; I コリント 11:23-26; ヨハネ 13:1-15
 イエスが私たちの間に宿られた目的はご自分の名誉や尊敬を求めるためではありません。却って謙遜のうちに父なる神の愛をすべての人間に現わしたい目的を持っていました。自分の弟子たちから裏切られる夜でさえイエスの最大の気遣いは自分の弟子たちがご自分の愛を確信できるようなことでした。愛されているなら弟子たちは自信を持ってより自由にその愛を他の人々に提供するのでしょう。
 イエスの御心は昨日も、今日も、明日もいつも変わりません。愛のうちに私たちを自分との親しい交わりに呼びかけています。その交わりはご聖体にあります。この聖なる食卓に参与することによってイエスが私たちの足も洗っています。罪に陥ったこの世に於ける私たちの心配、私たちの辛い生活を和らげます。イエスの友である私たちは愛のうちに他の人々を、他の同胞を助ける勇気を与えてくれます。
 自分の力では何もできない状態になり、病人の生活を送った人が人の世話を受ける恥ずかしさを経験するように自分の足を洗ってくれる者の前で同じ恥を感じるでしょう。自分がふさわしくないとしか感じないでしょう。ペトロも同じく「まさか私の足を洗わないで下さい」と叫んだ時もその気持ちでした。しかしイエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言い返します。
 イエスと共に生きられる喜びを感じるためにはイエスの無条件の愛を体験しなければならない事がイエスはご存知です。今日も私たちの前に腰を下ろし私たちの足を洗っています。その出来事を素直に受け入れられますか。私たちの足を洗う事によって、ご聖体を通して、父なる神への道を開きます。私たちに力を、勇気を、癒しを与え、私たちのかたくなな心を柔らかくします。そして神に対する愛によって私たちはイエスと同じような道を歩まれます。謙虚さと慈悲深さをもって同胞を愛してしまいます。
 天の父よ、私に対する愛を、イエスを通して示されました。私が満たされるようにイエスは自分を無にしてしまいました。私に与えたいすべてのものを受け入れるように私の心を開いて下さい。聖霊よ、いつもイエスの姿をどこにでも見られるように力を注いで下さい。
  父と子と聖霊のみ名のうちに。アーメン。

ブルゴアン

四旬節第5 日曜日
四旬節第5 日曜日
エゼキエル 37:12-14; ローマ 8:8-11; ヨハネ 18:11-19:45
 このミサのテーマは命です。洗礼、堅信、ミサ聖祭は主キリストの命にあずかるためにあります。
 今日の第一朗読を聞いている時にこの文書はあまりにも短いので分かりにくいと思いました。こういう場合、状況全体をつかむためにエゼキエルの37章の1節から読んだ方が分かりやすくなります。聖書と典礼のリーフレットの朗読の下に書いてあるように37章1節から10節までの間の文章では預言者エゼキエルは枯れた骨が復活する幻を見るのです。この幻はとても具体的でエゼキエルもびっくりするのです。
 当時のエゼキエルの役割は約束の地から追い出されバビロンに捕囚されている間に絶望している民を勇気付けることです。幻として砂漠の中に見える骨はそういう人たちのことです。彼らはくり返し「われわれの骨は枯れた。われわれの望みはうせ、われわれは滅びる」と言っていました。
 しかし預言者はそういう枯れた骨が生き返って大きな力になるということを幻の中に見ます。そのことにより神の「霊」の力、神の息吹の力が同じようなことをこれから成そうとしておられることを悟ったのです。つまり皆が捕囚の地から約束の地に戻れる日がくるということを意味していると悟った訳です。一種の復活です。民の命が戻るのです。エゼキエルは絶望していた神の民に自分が見た幻の意味を説明した時に彼らを勇気付けた訳です。
 刑務所に長年いる人がやっと出てきた時の気持と同じような気持です。ただ違うのは神の力、「霊」の力によって解放されるのです。
 私たちの心は度々バビロン捕囚の状態にあります。神の力で救われることを信じましょう。
 第二朗読ではパウロは私たちがその同じ「霊」の支配下にいると主張します。「神の『霊』があなたがたのうちに宿っている」と。そして「『霊』は義によって命となっています」と。その「霊」によって生かされています。
 イエスの十字架によってその「霊」は私たちのうちに宿られます。その「霊」の力によってキリストが復活されたように私たちも同じ「霊」によって復活し、新しい命で生きるのです。罪人である私たち、絶望に陥っている私たちには勇気付けられる言葉です。
 パウロは他の処でこう言います。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」と。(ローマ6:3-5)
 そして福音の朗読ではイエスがマルタに「わたしは復活であり、命である」、と言われた。一つの例としてラザロを死から甦らせるのも皆を勇気付けるためです。その出来事によってイエスに対する信頼が深まり、そしてこれからくるご自分の死の後の復活を信じることができるようになります。
 そしてここでも私たちに語っています。罪の暗い墓の中にいる私たちに向かってイエスはラザロと同じように私たちを呼ばれて「出てきなさい」と言っています。墓から出てきてイエスを自分の主として認めたら罪から解放され、自由の人となり、イエスと共に生きるのです。
 父と子と聖霊のみ名のうちに。アーメン。

ブルゴアン
Copyright © 赤岡教会メッセージ. all rights reserved.
FC2ブログ(blog)